写真で見る河井継之助 3

 写真で河井継之助と北越戊辰戦争の足跡を見て回ります。今回は戊辰戦争跡と只見を中心に見ます。文章は、現地説明板等を参考にして書いてあります。

 榎峠の道です。この場所も、中越地震で大きな被害を受けました。震災1年後に行って見ましたが、まだ通交止めになっていました。南側から長岡市内へ入るには、この榎峠が道が狭まり要衝となっています。
開戦を決意した河井継之助は、西軍に占領されていたこの榎峠の奪還を最初に試みます。そして5月10日に、榎峠を素早く占拠することに成功します。
 榎峠から見た小千谷方向の信濃川です。この榎峠の辺りは、山肌が信濃川近くまで迫っています。この地を奪還された西軍は、翌日早速攻撃をしますが、落とすことが出来ませんでした。そこで、この地を一望の下に見渡せかつ攻撃できる朝日山に攻撃の絞ると共に、信濃川をはさんで大砲での砲撃を始め、東軍もこれに応じます。両軍の大砲の大きな音が響き、小千谷長岡の市民を不安にさせました。
 朝日山へ上る途中にある、会津藩士の墓です。5月13日早朝、濃い霧の中を西軍は朝日山を攻撃します。西軍は朝日山頂まで迫りますが、東軍の桑名藩、長岡藩、会津藩の必死の守りにより攻略することが出来ずに、長州奇兵隊隊長の時山直八が山頂付近で至近弾を受け戦死します。ここでの桑名藩の立見鑑三郎の指揮は際立っていたといわれます。
  森立峠の見送り地蔵のあるところです。この道は、栃尾と長岡を結ぶ道で、長岡が落城したときにはこの道を通って長岡藩士やその家族等が栃尾へ逃れて行きました。河井継之助もこの辺りで立ち止まり、燃えている長岡市内を見たことだと思います。私が行った時には生憎の天気で、雲のため長岡市内は見えませんでした。
 長岡落城後の東軍は、加茂に集結します。現在のJR加茂駅から遠くないところの、大庄屋の市川邸を本陣とします。2003年に行った時には北陸銀行がありました。
写真は加茂市の青海神社から、加茂市内を見たところです。
 加茂市内にある大昌寺にある東軍の墓です。大昌寺は、東軍の米沢藩が本陣としたところです。会津藩や桑名藩士の墓がありました。
 只見の八十里越えの道です。この先の険しい峠道を超えて、長岡藩士をはじめとする東軍の多くは、会津若松へ逃れていきました。八十里越えの峠道を最後まで、守っていて西軍を防いだのは山本帯刀を隊長とする長岡藩士です。
 八十里越えの只見にある叶津番所跡(只見町叶津字居平)です。1704年にそれまでの番所の建物の痛みがひどくなったので、叶津村名主の長谷部家居宅に番所を移します。そして1728年からは名主長谷部家が番所の執務を仰せ付けられました。江戸時代後期の建物で、県の重要文化財に指定されています。
参考「叶津番所」のパンフレット。
 只見町塩沢字上の台850-5にある、「河井継之助記念館」に展示されている河井継之助像とガットリング砲です。この記念館には河井継之助が息をひきとったその部屋が「終えんの間」として保存されています。
河井継之助は8月12日に、塩沢の矢沢宗益宅に宿を取ります。そして8月16日、昼食後に眠り午後8時ごろに亡くなったと言われます。
雪の多いこの地なので、河井継之助記念館は、4月中旬から11月末までの開館となっています。 
 只見にある河井継之助の墓(奥に見えるもの)です。河井継之助が亡くなった矢沢宋益宅の場所は、只見ダムのために現在は湖の底になっています。しかし亡くなったその部屋は、そのまま移築し、現在河井継之助記念館の中にあります。河井継之助が生まれ育った長岡ではなく、ここ只見に河井継之助記念館があるのも、地元の人の長い間の大変な努力の賜物だと思います。また、只見の「河井継之助記念館」が出来る際には、長岡市からもお金や展示品などの提供があったと伺いました。
 毎年ここ只見の塩沢では、河井継之助が亡くなった8月16日には、河井継之助の墓前祭が行われます。写真は2003年の墓前祭の時のもの(上の写真もそのときのもの)です。

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