写真で見る河井継之助4

 今回は、2003年10月に行った岡山県高梁市を中心に紹介します。河井継之助はここで山田方谷から実地の学問を学びました。

 

 写真は、高梁市頼久寺町にある頼久寺の庭園です。
慶長9年(1604年)家督を継いだ小堀遠州は、頼久寺を仮の館とし1619年までここにいた。頼久寺の庭園は小堀遠州のこの頃の作庭と云われています。
 写真は、山田方谷が自宅で開いた私塾(牛麓舎)があったところです。
高梁市武家屋敷館(高梁市石火矢町)に展示していた復元図では、「物頭格 山田安五郎 80石」と載っていました。
 写真は武家宿花屋跡です。
河井継之助は水車へ行くまでの7月18日から8月2日までここで泊まりました。この宿で会津の秋月悌次郎氏や土屋鉄之助等と知り合いました。また、松代藩のほら貝の修行者、稲葉隼人とも会っています(2005年末のテレビドラマ「駆け抜けた蒼龍」(中村勘三郎主演)に出ていました)。
 写真は備中松山藩の藩校有終館跡です。
武家宿花屋とは、川を挟んではす向かいにあります。現在は高梁市立幼稚園になっています。
 写真は郷土資料館前(高梁市向町)に立つ山田方谷像です。
江戸時代末期、備中松山藩主の板倉勝清は破綻していた藩財政を立て直すために、山田方谷を登用して藩財政の改革に当たらせました。
 写真は藩公別邸の水車跡です。
河井継之助は備中松山では、主にここで自炊生活をして山田方谷から藩政改革などの実学を学びました。河井継之助にとっては、ここでの生活は大変充実したものでした。
 写真は臥牛亭です。
幕末の藩主板倉勝清は根小屋に隣接したお茶屋に、この小さな亭を建てました。お茶屋は藩主の憩いの場でありますが、板倉勝清はその一隅に農園を設け自分で耕作をして農民の苦労を偲んだといわれます。
 写真は方谷駅です。
現在は無人駅となっています。備中高梁から伯備線で3つ目の駅が方谷駅で、以前は氏名の名前の駅名はこの方谷駅だけだったそうです。
 方谷駅の直ぐ裏手に山田方谷の家(開墾用)がありました。場所は方谷駅のホームの隣と云える近さです。
実際にこの地に立つと、高梁川の直ぐ近くまで山が迫っていて開墾の土地などはほとんどないように思われました。
 写真は見返りの榎を山田方谷邸から見たものです。
河井継之助はあの榎の辺りで、正座をして山田方谷に頭を下げ別れを告げたといわれます。
榎の木が大事に保護されていたのが分かりました。
 写真は山田方谷の生家があったところで、手前の門のある家がそうです。



 写真は方谷園(山田方谷の生家の近くにあります)にある山田方谷の墓です。
  写真は高梁川沿いに立つ、山中鹿之助の墓です。
山中鹿之助は1545年に生まれ、毛利と対抗していた尼子氏に仕えました。「我に七難八苦を与え給え」と三日月に祈りました。播州高月城にこもりましたが、毛利氏に攻められ落城し捕らえられます。備中松山へ護送される途中で、ここの阿井の渡し場で不意打ちにあい惨殺されました。
 写真は世界最古の庶民の学校といわれる閑谷学校資料館(岡山県備前市閑谷784)です。
1666年備前藩主池田光政が、庶民のために道場を造ることを決めました。
この閑谷学校は江戸時代を通じて、岡山城下にある藩校と並んで2大教育道場として明治時維新まで続きます。明治3年閉鎖されますが、明治6年山田方谷を招き、閑谷精舎として再興されます。


参考 現地説明板等および各施設のパンフレット等 

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