八重の桜と奥羽越列藩同盟

 

1、罪なくして切腹す 神保修理

 

526日の八重の桜、なかなか見応えがありました。
 神保修理のことに絞っていたことが、分かりやすく良かった。

 1986年年末の日本テレビの「白虎隊」の時には、国広富之氏が演じてやはり涙をそそりました。
「誰をも怨むなよ」と言い残し、腹を切りました。

 優れた国際感覚を持ち、長崎に視察に行きます。京都や長崎では長州藩や土佐藩の人達とも知り合ったようです。
 しかし鳥羽伏見の敗戦や徳川慶喜の無断での江戸逃げかえりに、藩主も同行した責任を問う声が大きくなります。
藩主や幕府首脳に対する会津の不満が、彼一身に注がれるようになります。
 敗戦で大坂から江戸藩邸へ帰ってくる将兵が多くなると、遂には、藩主松平容保も彼をかばい切れなくなります。

 彼を知る勝海舟なども神保修理を助けようと、会津藩へ働きかけますが、これも会津の抗戦派の怒りをかってしまいます。
 遂には抗戦派から三田下屋敷に移送され、弁明の機会も与えられず偽った君命により切腹することになります。
 ドラマでは容保と会っていますが、史実はやや違うようです。

 夫婦仲はとても良かったと云われ、妻の雪は後に会津戦争で、やはり自ら命を絶つことになります。

       参考 ウィキペディア

 

 

2、白虎隊の悲劇

 

 2011年の7月白河市で、2012年の8月は日野市で、「白虎隊」の講演を聞きました。講師は飯沼一元氏で、飯沼氏は、白虎隊士の飯沼貞吉氏の御子孫の方です。

 講演では、従来白虎隊士が飯盛山で自害したことは、会津若松城が燃えているのを見て、お城が落城したものと誤解して、それがもはや最後の時だと次々に自害したと云われてきました。

 しかし、残された記録を読み解くと、飯盛山の自害の前には隊士たちが激論を戦わしていることが分かるそうです。お城はまだ落城したのではない。われわれは藩主のもとであくまで戦うべきだとの論もあったが、負傷者もいて消耗しきった体で無事入城が出来るかどうか等の意見があったようです。

 お城を見て落城したと単純に誤解して、そのまま次々と自決したと思われては、亡くなった白虎隊士が浮かばれませんと話していました。

 当時の記憶で書いていますので、私の記憶違いや勘違いがあればご容赦願います。

 

 

3、会津籠城と凌霜隊

 

会津若松の戊辰の戦いでは、幕府の歩兵隊、長岡藩兵や新撰組など、会津へ応援に来た多くの兵がいました。

 そのなかで、あまり知られていない郡上八幡の凌霜隊について、簡単に紹介します。
 岐阜県の郡上八幡は青山氏の藩でした。
 幕末の時代各藩は、幕府側か朝廷側かどの藩も迷いどちらにつくか政争や議論がおきています。
青山藩も大政奉還の翌年に朝廷への帰順を決めます。
しかし当時の江戸家老の朝比奈氏は、凌霜隊をひそかに結成させ、息子朝比奈茂吉17歳を隊長にし、隊士45名(47名との説もあり)を無届脱藩させ会津へ応援に向かわせました。

 何故こうしたのかは、旧幕府勢力が復活した場合に備えて、又は藩内の意見の対立によりなどとも云われています。
この時代どの藩も色々迷い、その政争のために切腹等により亡くなった人もいます。

 凌霜隊は小山で戦い、塩原に駐屯し、その後会津若松の籠城戦に加わります。会津若松城に入城出来たのは9月に入っていました。
籠城戦では、新たに再編された白虎隊とともに、西出丸を守ります。


 やがて会津若松は開城となり、凌霜隊も城を出て、東京へ送られます。戦で戦死した者や負傷して動けない者を除いて26名が東京へ着きます。

 その後自分の藩の郡上藩へお預かりになり、故郷の郡上へつきます。
故郷の郡上八幡ですが、そこでは犯罪人としての厳しい生活が待っていました。彼らは揚屋と云われる牢屋に入れられます。
厳重な見張、粗末な食事や厳しい生活環境により、病気になる人が続出したと云われます。

 このことを聞き、この人々を救おうと立ち上がったのが郡上八幡のお寺でした。その運動により、揚屋から藩内の長敬寺へ身柄が移されました。
揚屋で半年、長敬寺で4カ月の生活の末、自宅謹慎となりました。

 郡上八幡の城には、この凌霜隊の碑(多分天守の裏あたり)があります。
また、長敬寺も残っていたとおもいます。

           参考 「救え会津」 会津武家屋敷編集発行

 

 

4、秋田藩の奥羽越列藩同盟からの離脱

 

54日に奥羽越列藩同盟が成立しますが、奥羽越の各藩はそれぞれ一枚岩では無く、やはり朝廷方か列藩方か意見が分かれていました。

 新政府の九条総督を受け入れた秋田藩の去就を怪しんだ仙台藩が使者7名秋田藩へ送ります。使者が秋田藩へ着いたのが71日です。

 秋田藩はあろうことかこの使者を惨殺します。この惨殺は薩摩藩の参謀大山格之助の強い勧めがあったとされます。
 秋田藩は74日、この使者を襲い惨殺しその首を晒して同盟離脱を宣言します。

 秋田からは逆に、75日庄内藩征討軍が派遣され、征討軍は新庄藩へ着きます。
 これにより新庄藩も、列藩同盟を離脱し新政府軍に付きます。

 この時庄内藩は、同盟軍として会津の白河口へ第12大隊を派遣していましたが、急遽呼び戻すことにします。

秋田藩が寝返りをしないで、この庄内藩の部隊が白河口で戦っていたら、戦はどうなっていたか・・・。

 

 

5、庄内藩の戦い

 

 盟軍側が新政府軍に押されている中で、庄内藩は善戦します。以下簡単に庄内藩の戦いを書きます。

 福島方面へ向かっていた庄内藩の軍は、新庄の手前の舟形で新政府軍と戦い勝利すると、714日には新庄藩の城下へ攻め込み、新庄城は落城します。
藩主戸沢氏は秋田領へ逃れます。新庄の城下はこの戦いで多くが焼けてしまいます。

 その後も庄内藩の軍を中心とする同盟軍は進撃し、82日には秋田藩領内へ進みます。
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11日は横手城を攻め落とし、大曲へ向かいます。

 新政府軍は、日本海側でも庄内藩へ攻めています。この戦いには秋田藩だけでなく、秋田藩周辺の本庄・亀田・矢島藩が新政府側に加わり、庄内藩の国境へ進みます。
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16日女鹿(山形秋田の県境)で戦闘があります。
北上した庄内藩軍は、矢島を攻めさらに88日には本庄が落城し、亀田藩は降伏します。
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18日には、秋田城までわずか5キロのところまで進みます。秋田藩も必死の防戦で戦線は膠着します。

 一方内陸を進んでいた大曲方面の庄内藩の軍も、秋田藩領へ近づくと、秋田藩の必死の防戦で戦線は膠着状態になります。

 そして9月に入ると奥羽列藩同盟の各藩は相次いで謝罪降伏に入ります。94日米沢藩降伏、915日仙台藩降伏となり、同盟の中心的な2つの藩も降伏します。

 このため庄内藩も、91718日に一斉に兵を引き揚げます。923日降伏することになります。しかし庄内藩は、自領内へは新政府軍の侵入をさせず、逆に攻め返して秋田藩を追い詰めるとこまで攻め込んでいます。
内陸を進んだ庄内藩の第2大隊の隊長は、酒井吉之丞で新政府軍からは鬼玄蕃と恐れられたと云われます。

 もう少し詳しいことを知りたい方は、「秋田・庄内戊辰戦争」(郡義武著 新人物往来社)があります。

 

 

6、盛岡藩の戦い

 

列藩同盟中最後の降伏と云われる盛岡藩の戦いを、簡単に紹介します。

秋田藩が列藩同盟を離脱したころ、隣の大藩盛岡藩でも藩論はまとまらず、73日の重臣会議でも激論が交わされましたが結論は出ませんでした。

 この流れを変えたのは、家老楢山佐渡の京都からの716日の帰国でした。
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17日城内へ重臣を集め、列藩同盟を守り、離脱した隣の秋田藩を討伐することを決めます。

 727日、楢山佐渡は自ら兵2000人の総大将となり秋田藩境の花輪に向け出陣します。
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10日、盛岡の北の秋田藩領(秋田県鹿角市)の12所舘を攻撃し、これを落とし更に進撃します。
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21日には秋田佐竹藩の大館城を攻め、これを落とします。この戦いで火災が発生し、折からの強風もあり町の大半が焼失しました。

 しかしこの後、この戦線に新式装備の佐賀藩兵の応援が来て盛岡藩は、92日再び大館まで押し戻されます。
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6日、連戦での兵の疲れと応援の兵も無いこと等により大館城を退去します。

 その後盛岡藩は、藩境を守り戦いを続けますが、米沢・仙台藩も降伏したことにより、922日休戦の申し入れを行い、降伏することになります。
正式に開城するのは、遅れて1010日になりました。

 またこの期間の922日、青森県の野辺地では、弘前藩と盛岡・八戸藩の戦いが行われ、野辺地戦争と云われます。この戦いが奥羽越列藩同盟の最後の戦いになりました。

 明治2年東京で謹慎していた楢山佐渡は、67日盛岡へ護送され、藩の責任を一身に背負い切腹します。

        参考 「三百藩戊辰戦争事典 上」(新人物往来社)

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